イスラームにおける人権に関する誤解の数々

前書き

以下に示すのは、イスラームとその人権における理念に関して顕著に見られる誤解の一部です。これらの告発の多くはユダヤ教やキリスト教を始め、その他の宗教にも当てはまることは注目に値します。というのも一概に言って宗教的規律というものは、近代的な非宗教的生活システムにおいて受け容れがたいものと見なされているからです。ここでの説明はイスラームの教義に沿ったものですが、それはイスラームが近代的世俗主義を導く急激な反動の主要因となったある種の宗教の誤謬や不正などから無縁であることによっています。イスラームにおいては、創造主とその使徒への信仰、そしてその法規定という枠組みにおいて、宗教と科学、及び文明の発展との間にいかなる衝突もなかったのです。

第一の誤解

ある種の人々はイスラーム法が自由の本質を制限し、人権に関する近代的概念に沿った世界の先進文明にはそぐわないものであると主張します。
イスラーム法に関する誤解への回答

広く蔓延しているこの種の誤解の一部については、既に述べました。ここではムスリムがイスラーム法を人生の完全かつ包括的な規定であり、その原理と法においてあらゆる時代と場所と人間に適用可能かつ適合するものであるということを信じていることについて指摘しましょう。それが自分自身の欲望に発するものであれ、あるいは寡頭政治や聖職者政治などによるものであれ、真の自由とはいかなる不正への従属からも無縁なものです。そして最悪の隷属状態とは、人類の創造主であり保護者である唯一の主以外の何かを崇めることです。イスラームは、何でも望むことをしていいのだ、というような自称自由主義者が主張するところの自由は認めていません。イスラームは人間とその創造主である主の間に精神的絆を確立する唯一の宗教ですが、そこには人生の全側面を熟知する最も英知溢れるお方である神による、俗世間における現世的命令も含まれています。イスラームは人間と社会や他の人々や国家との関係を調整すると同様に、人間と神との関係も 秩序立てています。またユダヤ教などとは違って普遍的な教えであり、限られた種類の人々のためのものではありません。キリスト教も同様の普遍性を謳ってはいますが、彼らはイエスに啓示された正しい道から脇道に逸れてしまっているかのようです。イエスは次のように言ったと伝えられています: 「するとイエスは答えて言われた、“わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない”。 マタイによる福音書15:24.

またイエスは、ユダヤの十二部族のために選んだ彼の十二使徒に向かってこう言ったとも伝えられています: 「 イエスはこの十二人をつかわすに当たり、彼らに命じて言われた、“異邦人の道に行くな、またサマリヤ人の町にはいるな。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行け。”」 ( 同10:5-6.)

一方イスラームの使徒ムハンマドは、全人類への慈悲として遣わされました。至高なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています: -そしてわれら(アッラーのこと)があなたを遣わしたのは、全世界への慈悲ゆえに他ならない。, (クルアーン21:107)

イスラーム法には二つの側面があります。一つは信仰と様々な崇拝行為、そして時間や場所などの変化による影響を受けない、不変の法という側面です。例えばイスラームにおけるサラー(礼拝)は、ナイジェリアであろうとアラブであろうとインドネシアであろうと、聖クルアーンの読誦や屈折礼、跪拝などの特定の言葉や動作から成立している一つの儀式です。同様にザカー(義務の浄財)もまた、様々な種類の財産において不変の割合や数量を定められています。また相続法も既に定められたものであり、誰かが自分に益するよう、あるいは自分が損失を蒙るような形でそれを勝手に修正することは許されません。これらの法はいかなる場所であろうと不変であり、全人に等しく適用されます。そしてイスラーム法のもう一つの側面は、人間間、あるいは人間と国家間の関係を調整する類の法という側面です。これらは留まることなく変化する社会状況における必要に応じて適用されるべく、その詳細が言及されないまま一般的な形式で定められています。こ


の種の規定はその一般的形式からはみ出ない範囲で、変更したり修正したりして適用することが可能です。しかしこれらの修正や変更作業は、イスラーム法の主旨と社会の現状におけるあらゆる進展に通じている専門家や法学者による監督下になければなりません。例えばイスラームには協議という原理がありますが、この原理はその構造に関するいかなる詳細にも立ち入ることなく、聖クルアーンの中で一般的な形で言及されています。この柔軟性という特色は、あらゆる時代と場所の要求にそぐうように、イスラーム学者が協議の詳細を解釈出来ることを可能にしているのです。ある世代や場所において適していたものは、時代の要求に応じて多少の修正を施しつつ、別の世代や場所に適用可能なものとなりえます。この柔軟性はイスラームの有効性と包括性、そして普遍性をよく表しています。

第二の誤解

イスラームについての基本的事実すら知らないある種の人々‐偽の学者やオリエンタリスト、イスラームの敵など‐は、イスラーム国家は非ムスリムの法的権利を尊重しない、と主張します。

非ムスリムの権利に関する誤解への回答
イスラーム法はイスラーム社会における非ムスリム居住民に関し、異なった種類の諸権利及び義務を提示しています。この誤解への反論には、イスラーム法学書に言及されている次の一般法規定を引用すれば十分かもしれません: 「非ムスリムには、ムスリムと同様の権利がある。また彼らにはムスリムと同様の義務も課される。」これは一般的規定であり、そこからイスラーム国家における非ムスリム居住民に対する安全保障や私的所有権、宗教的行事を行う権利などの公正かつ平等な法規定が導き出されます。

またイスラームは非ムスリムとの宗教的対話や議論も認めています。但しムスリムは彼らとの議論や対話において、最善の手法を選ばなければなりません。至高なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています: - そして啓典の民(ユダヤ教徒とキリスト教徒)とは最善の手法でもってでしか、議論してはならない。しかし彼らの内の不正者は別である。そして言うのだ:「私たちは私たちに啓示されたものと、あなた方に啓示されたものを信じる。私たち の崇拝しているものと、あなた方の崇拝しているものは一つである。そして私たちはかれ(アッラーのこと)に服従しているのである。」, (クルアーン29:46)

また神は他の宗教や信仰に関して、聖クルアーンの中で次のように述べています: -言え、「あなた方がアッラーを差し置いて祈っているものについて、語ってみるがいい。それらが地上において創造したものを、私に見せてみよ。あるいは天(の創造)において、それらに何らかの参与でもあるというのか?もしあなた方が本当のことを言っているというなら、(その証拠として)これ(クルアーンのこと)以前の啓典でも知識の片鱗でも携えて来るがよい。」, (クルアーン46:4)

またイスラームは他宗教の者を強制的に改宗させるようなことを、禁じています。聖クルアーンにはこうあります: -あなたの主がお望みになれば、地上の全ての者が信仰に入ったであろう。一体あなたは人々が信仰者となるように強制するというのか?, (クルアーン10:99)


聖クルアーンと預言者ムハンマドの言行録は、イスラーム法治社会に属する者の信仰の自由を明らかにしています。多くの社会はムスリムどころか自らの民に対しても非寛容であったという例が数多く存在する一方、イスラームの歴史は非ムスリムに対しての寛容さを示す沢山の例を提示しています。

ムスリムは、彼らに敵対的ではない全ての人類と公正に接することを義務付けられています。聖クルアーンにはこうあります: -アッラーは宗教ゆえにあなた方に戦いを仕掛けたり、あなた方を家から追い出したりしなかったような者たちに対して、あなた方が善行を施したり公正に接したりすることを禁じられてはいない。実にアッラーは公正な者を愛でられるのだ。, (クルアーン60:8)

しかしイスラームに対して戦争を仕掛け、敵対し、ムスリムを追放するような人々に関しては、別の規定があります。至高なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています: -実にアッラーがあなた方に禁じられるのは、宗教ゆえにあなた方に戦いを仕掛けたり、あなた方を家から追い出したりした 者たち、またあなた方の追放に手を貸した者たちと親密にすることである。そして彼らと親密な者たちこそは、不正者である。, (クルアーン60:9)

ムスリムと非ムスリム間の関係は、友情と公正な手法に基づいています。またイスラーム社会に属しているかどうかを問わず、ムスリムと非ムスリム間の商取引なども禁じられているわけではありません。ムスリムはユダヤ教徒とキリスト教徒の屠殺した食肉を食べることが出来ますし、男性ムスリムは彼らの内の女性と結婚することも出来ます。またイスラームが家庭に非常な重きと配慮を置いていることを忘れてはなりません。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています: -この日、あなた方にはよき物が許された。そして啓典の民(ユダヤ教徒とキリスト教徒)の屠殺した物はあなた方にとって合法であり、あなた方の屠殺した物は彼らにとっても合法なのである。また信仰者の貞淑な女性と、あなた方以前に啓典を授けられた民(ユダヤ教徒とキリスト教徒)の貞淑な女性は、あなた方が彼女らにマハル(婚姻の際の贈与財)を贈り、姦淫(目的)や非合法な仲となることを目的とすることなどではなく正しい婚姻契約を結ぶのであれば(、合法である)。そして信仰を拒む者は、実にその行いが無駄に帰すのだ。彼は来世において、損失者の類となろう。, (クルアーン5:5)

第三の誤解

ある人々はイスラームの刑罰が残酷で野蛮であり、人権を無視したものだと主張します。


イスラーム的刑罰に関する誤解への回答
あらゆる社会には、重大な犯罪に対する刑罰の体系があります。近代的な刑罰体系においては専ら拘禁刑が適用されるようになりましたが、多くの犯罪学や社会科学の専門家らは拘禁期間が有効な犯罪抑止力として働いてはおらず、むしろ大方の場合において犯罪者に喪失感や無力感を抱かせたり、また不公平な刑罰体系に対しての悪意すら覚えさせたりすると言うのです。同様に犠牲者側もまた多くの場合、正義の行使に疑念を抱きます。また適切な拘禁期間とその判決にもまた多くの議論が残っています。拘 禁施設、及びそれに関連する諸々の施設における莫大な維持費用については言うまでもありません。

始めに、イスラームにおける刑罰体系はイスラームの完全かつ公正な人生体系の一部であることに触れなければなりません。そしてそれは犯罪的行動にいかなる弁明の余地も与えぬまま、全市民の平等な機会と福利を提供するのです。

イスラームにおける犯罪は二種類に分類されます:

  • イスラーム法によって既にその刑罰が定められているもの。ここには棄教や宗教における不敬行為、殺人や暴行、姦淫や窃盗、飲酒や酩酊、誰かを姦淫やその他の不道徳な行為において嘘の告発をすること、他人の生命や財産を脅かすことなどがあります。
  • イスラーム法によってその刑罰が定められてはいないもの。このような犯罪に関しては、法的権威がイスラーム社会とムスリムの公共福利を考慮に入れつつ、その刑罰を定めます。この種の刑罰は「タアズィール(懲戒刑)」と呼ばれています。

またイスラーム法によってその刑罰が明確に定められている犯罪に関しては、更に二つの種類に分けられます。一番目の種類は殺人や暴行、名誉毀損など、犠牲者の人権に関するものです。これらの犯罪の刑罰は、もし原告がそう望めば軽減することも出来ますし、あるいは殺人や暴行などの場合には刑の執行の代わりに血債を受け入れたりすることも出来ます。二番目の種類はイスラーム法によって禁じられている物事や、神の命令の侵害に関する刑罰についてのものです。この中には飲酒や姦淫や窃盗があり、この種のものは一度法的権威のもとに立件されて確定した場合、例え原告がそう望んだとしても刑罰を軽減したり免除したりすることは出来ません。


イスラーム法における刑罰実施に関する規定は、正義を確立するためのものです。例えばこれらの刑罰を見てみれば、それらが信仰、生命、理性、尊厳と子孫、財産という人間の人生における五つの本質的ニーズが非常な侵害を受けた時にのみ適用されることが分かります。また刑罰の適用対象は、責任能力のある正常な理性を備えた成人のみであり、更には自白か信頼のおける証言によってのみでしか犯罪は確定されません。疑念の余地の残る場 合、証拠不十分な場合などにおいては、刑の執行はされません。預言者ムハンマドはこう言いました: 「少しでも(証拠に)疑念の余地が残る場合、刑罰の執行を取りやめよ。」 アッ=ザハビーその他による伝承。

このような厳罰を施行することの目的は、社会の犯罪要素に見せしめ的な教訓を施すためでもあります。イスラーム的刑罰は既に証明されているように、犯罪への誘惑に対する非常に有効な抑止効果を発揮します。こうして全個人の権利は保護され、社会全体が平和と安全を享受するのです。例えばもし自分が犯した犯罪ゆえに、自分がやったのと同様の強さでもって皮膚を斬られたり、骨を折られたりすることを知っていれば、敢えてそのような犯罪をしようとは思わないでしょう。


このような現世的かつ一時的な罰とは別に、犯罪者は罪を犯すことによって、来世で神による永遠の懲罰を受けることについても警告を受けています。イスラーム社会かどうかに関わらず、その法や規定を破る者はそのような厳しい懲罰に晒されるのです。またいかなる人間社会にも、その悪行を阻止するためには力を行使しなければ従わないような個人は存在するものです。イスラームは全ての犯罪に対して適切な刑罰を定めていますが、それはひとえにそれを定めたのは神自身であり、神こそは人類及びそのあらゆる種類の創造物についての事実を仔細に知る、全知かつ英知に溢れたお方であるからです。

強盗 には路上での追いはぎ、強盗殺人、住居や商業地区などに武器を持って侵入したり、無実の人々を武器で脅迫したりすることなども含まれます。これは文字通り、社会における福利への宣戦布告です。

強盗の罪に対して規定された刑罰は、聖クルアーンの次の節に示されています: -(不信仰から)アッラーとその使徒(の仲間)に争いをしかけ地上に腐敗をもたらす輩は、死刑、あるいは磔の刑、あるいは手足の交互切断刑、あるいは追放刑に処される。これらは 現世における彼らへの懲罰であるが、来世においてはこの上ない懲罰が彼らを待ち受けているのだ。但しあなた方が召し捕る前に悔悟した者たちは別である。アッラーがお赦し深く慈悲深いお方であることを知るのだ。, (クルアーン5:33-34 )

これらの刑罰はその犯罪の重大さと性質を考慮しつつ、法的権威の裁量において様々な形で適用されます。もし強盗が殺人と財産の強奪を行った場合、その刑罰は死刑及び磔刑です。またもし脅迫して財産を奪い取るだけで、殺害や暴行には至らない強盗に対しての刑罰は、手足の交互の切断です。財産を強奪することなく殺人を犯した者に関しては、通常の殺人に対しての罰が適用されます。また無実の人々を脅かすだけで殺人も財産の強奪も犯さなかった場合、その刑罰は追放、あるいはある種の学者によれば拘禁です。

故意の殺人とそれに準じるもの 他人の生命を不当に侵した者への適切かつ公正な刑罰として、故意の殺人には報復刑が定められています。報復刑は殺人予防の最も効果的な刑罰です。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています: -信仰する者たちよ、殺人に関してあなた方に報復刑が定められた。自由民には自由民、奴隷には奴隷、女性には女性…, (クルアーン2:178)
しかしもし犠牲者側の遺族が加害者を赦免した場合、刑罰の執行は免れます。遺族側が血債と呼ばれる賠償金の受領を受け入れた場合も、同様です。聖クルアーンにはこうあります: -しかしその件(殺人の報復刑の行使のこと)が(被害者側である)その同胞によって赦免された場合、(被害者側はその代償を別の)よき形で請求し、また(加害者側は)彼に対して(その義務の遂行において)至善を尽くすのだ。, (クルアーン2:178)

窃盗 神は窃盗犯への刑罰として、その手の切断を定めました。これは聖クルアーンの中の次の節によっています: -男女の窃盗犯は、彼らが成したことの報いゆえ、そしてアッラーの懲罰ゆえ、その手を切断するのだ。アッラーは威光高く、この上なく英知溢れるお方。, (クルアーン5:38)


尚手の切断刑は、特定の条件を満たしていない限り執行されません。まず盗難品の価値が、刑罰が適用される最低額に達していること。次に盗難品がその所有者の管理下と保護下にあったこと。また犯罪の証拠が不十分であったり、犯罪の確定に疑念の余地があったり、あるいは窃盗犯の意図が飲食や衣服などにおける切迫した必要からではなかったということ。このような場合において刑は執行されません。窃盗は非常に深刻な犯罪であり、もし適切な刑罰がなければ社会的・経済的生活を脅かす現象の蔓延を見ることになるでしょう。また窃盗犯と対面するような場に出くわせば、それは殺人や暴行などの他の犯罪へのきっかけにもなり得ます。窃盗すれば手を切られることを知るならば、人は間違いなくそのような犯罪を思い止まることでしょう。

姦淫 イスラームは姦淫罪を犯した未婚者に、鞭打ちの刑を科しています。聖クルアーンにはこうあります: -男女の姦淫者は各々、100回の鞭打ちに処すのだ。もしアッラーと最後の日を信じているのであれば、アッラーの宗教において彼らへの哀れみに囚われてはならない。そして信仰者の一部を彼らへの懲罰の証人とさせるのだ。, (クルアーン24:2)


一方姦淫を犯したのが結婚歴のある者であれば、その刑罰は投石による死刑です。この刑罰の執行もまた、特定の条件を満たしていることが要求されます。結婚歴のある男女が姦淫を犯した場合に関して言えば、自白か、四人の目撃者による証言があった場合においてのみ刑が執行されます。自白は、それが誰の強制によるものでもないことを示すためにも、公けに明瞭な形で行わなければなりません。また一度自白しただけでは刑の執行にまで至ることはなく、自白を四回繰り返すか、あるいは四つの異なった場や開廷期間における自白によって、初めて刑の宣告がなされます。また裁判官は「口づけしたり、抱き締めたり、あるいは触れ たりしただけで、性交にまでは至らなかったのではないか?」といった風に、最終確認を問うことも出来ます。これは自白を取り下げる余地を十分に残しておくためです。この刑罰は預言者ムハンマドの言行録に根拠付けられており、その中では自分たちの罪を執拗に告白した何人かの姦淫者の話や、あるいはその行いの結果妊娠した女性の話などが伝えられています。

そしてこの刑が執行される二つ目の場合は、四人の信頼に足る証人の証言によるものです。これら四人の目撃者はその言行における信頼性で知られている、公正な者たちでなければなりません。またこれら四人の証人は、告発した容疑者の実際の性交の現場を目撃したことを確認する必要があります。つまり彼ら四人が、男性の性器が女性のそれに挿入されたのを直に目撃したと証言しなければならないのです。このようなことが起こるのは非常に稀なことであり、もし起こるとするならば、それは姦淫者が法や社会的対面や道義などを無視し、公けの場でそのような非合法な行為をあからさまに敢行したという他にはあり得ません。しかしイスラーム的視点における姦淫は世俗的な法の下では考慮されることもなく、単なる個人的諸事の内の一つと見なされるだけです。これは実際のところ社会的諸権利‐特に女性側の尊厳‐の侵害であり、そこには多くの悪影響が見出されます。またこのような所から社会的価値観や社会的道義の腐敗化が始まり、また性病なども蔓延するのです。また妊娠中絶や、両親から適切な世話を受けることの出来ない私生児の原因ともなります。子供が実父ではない者に結び付けられることによって家系の混同が発生したり、実父の子供という名誉を奪ってしまったりもします。更には本来相続人でない者が相続権を得たり、または本来相続人である者が相続の機会を失ってしまったりするなどという、相続上の問題も起こり得ます。また実の姉妹や姪、叔母など、法的には血縁上結婚できない相手と知らずに結婚してしまった、などということさえ発生し兼ねません。これらの無実な子供たちが自らの真の身元を奪われたり、実の両親や家族の庇護を受けられなかったりすることは真の犯罪であり、ひいては社会的・生理的病気や不安定性などを及ぼす可能性があります。子供にとっては父親と母親こそが心の平安の基礎なのであり、避難所であり、保護官、支持者、そして幸福なのです。

嘘の告発 他人を姦通で告発しておきながら、その証拠を提示出来ない場合には、公けの場で鞭打ち刑に処されます。全能なる 神は、聖クルアーンの中で次のように述べています: -そして貞淑な女性を姦淫で告発した後に四人の証人を呼んで来れない者は、80回の鞭打ち刑にせよ。そして(その後、)その者の証言はもう永久に受け入れてはならない。彼らは放埓者なのである。, (クルアーン24:4)

この刑罰の執行の目的は、無実の者の名誉と面目の保護です。嘘の告発に対する刑罰がなければ、そのことによる被告側の報復的行為や復讐の機運が盛り上がり、暴行や殺人にまで至る可能性もあるでしょう。イスラーム法はこの種のものを社会から根絶するための抑止策として、証拠を提示出来ない侵害者に対しての厳罰を定めているのです。またイスラームはこの犯罪に対して肉体的刑罰のみには留まらず、将来的にそのような「嘘つき」の証言を受け入れてはならない、としています。しかしその者が神に悔悟してその行いを正した場合、その処遇は再検討されます。

酩酊 人間は度を越さない限りにおいて合法な飲食物を自由に摂取ことが出来ますが、酩酊を催す物質の摂取は禁じられます。

というのもそうすることで人は自らの心身を害するだけではなく、家族や社会全体の倫理観にまで被害を及ぼすからです。酩酊物質は全ての罪へと導く原因になることから、「全ての悪の根 源」とさえ呼ばれています。イスラームは公けの場での酩酊と酩酊物質の売人に、鞭打ち刑を定めています。これはそのような有害物質の撲滅と、財産及び理性的・心理的健康の保護のためです。

またアルコールや薬物の乱用は、殺人や暴行、姦淫や強姦、近親相姦など、他の犯罪への性癖を促すことなどといったある種の悪影響を及ぼします。またアルコール中毒者や薬物中毒者は生産的役割を果たせない、社会にとって無益な存在となってしまいます。中毒者は盗みやその他の犯罪など、あらゆる非合法な手段を用いてもそれらの物質を手に入れようとするかもしれません。また医学的実験が実証するところでは、アルコールや薬物中毒によって深刻な健康障害や伝染病などが引き起こされます。またそれらは財産や時間の浪費にも繋がり、ひいては社会に対する危害にも関わってきます。そしてアルコールなどの酩酊物質は一時的に理性を弱めたり失わせたりする効果があるゆえに、そのような状態にある者は犯罪的な危険行為に出たり、イスラームが禁じているような状態に陥ったりすることが往々にしてあります。

イスラームにおける上記の刑罰は全て人権と、国民が神の代理 としてその絶対的英知と正義を体現することにより法の威信を保護するためのものです。イスラーム法における一般規定は、犯罪の種類と大きさに応じて刑罰の度合いも決まるというものです。聖クルアーンにはこうあります: -そして一つの悪行に対する報いは、それと同じ一つの悪なのである…, (クルアーン42:40)

また全能なる神は、聖クルアーンの中で次のようにも述べています: -そしてあなた方が懲らしめる際には、あなた方がされたのと同様の形において懲らしめるのだ。しかしもし辛抱するなら、それが辛抱する者たちにとって最善であろう。, (クルアーン16:126)

犯罪に対する公正な刑罰は、それと同等なものです。しかしイスラームは慈悲の意味から、代償としての血債の受領による刑罰の免除、あるいは人権と傷害に関することにおいては刑罰の執行における許しや寛容さのための余地を十分確保しています。神は、聖クルアーンの中で次のように述べています: -そしてわれら(アッラーのこと)は、その(トーラーのこと)中で彼らに対し定めた:命には命で、目には目で、鼻には鼻で、耳には耳で、歯には歯で、そして傷害は(同様の傷害によって)報復される。しかしそれを免じてやる者は、それが彼にとっての贖罪となろう。アッラーが下されたもので裁かない者は、実に不正者なのである。, (クルアーン5:45)

刑罰を赦免してやることは、奨励されています。慈悲深い神は、聖クルアーンの中で次のように述べています: -そして赦し、大目に見よ。アッラーがあなた方を赦される事を望まないのか?アッラーは赦し深く、慈悲深いお方である。, (クルアーン24:22)

また赦し深い神は、聖クルアーンの中で次のように述べています: -だが許して和解する者には、アッラーが報奨を与えて下さるであろう。…, (クルアーン42:40)


イスラームはその野蛮さや粗野さゆえに犯罪者に報復し、厳罰に処するわけではありません。刑罰の目的は厳格な公正さと見せしめ的意味合いを持った抑止力により、人権と法の尊厳を保護するためです。また平和と平穏さを維持し、全人が犯罪を犯す前に一歩踏み止まって考える機会を与えることです。他人を殺害すれば自分も殺されることを知り、窃盗すれば手を切られることを知り、また姦淫を行ったり無実の者を姦淫で訴えたりする者が鞭打たれることを知り、姦淫すれば投石の刑に処されることを知るならば、人は間違いなくそのような犯罪を思い止まることでしょう。刑罰に対する恐怖は犯罪への一歩を思い止まらせ、そして社会をより安全で平穏なものにします。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています: -報復刑(の定め)にこそ、あなた方の生命(の安全)があるのだ。理知を備える者たちよ、あなた方は(不当な殺害や傷害から)慎むことであろう。, (クルアーン2:179)

イスラームにおいて定められたこれらの刑罰が非常に残酷である、という提言への回答は明快です。社会における犯罪の非常な危険性において全人が同意している以上、それを犯す者に対してもその厳しい尺度を適用し、厳罰に処すべきなのです。唯一の問題は、犯罪率を低下させるために最善であり、最も有効かつ公正な方法を取るかどうかということだけです。イスラーム法と世俗的な人定法、または上記の刑罰と一定期間の拘禁刑による刑罰制度を比較してみれば、後者には被害者と加害者、ひいては社会一般にまで望ましくない影響が及ぶことは明らかです。イスラーム法に則った刑罰は、加害者自らが被害者と社会の倫理規準に対して与えた損害を身をもって味わうという意味において、公正かつ理に適っており、また普遍的かつ実践的、更には明快なものです。神こそはその創造物と真に公正な刑罰、及び犯罪の抑止に最も有効な手段について最も熟知しているお方です。犠牲者の権利に重点を置くことは、論理と正義に適ったことです。加害者を哀れむことで、被害者の権利を軽んじるようなことがあってはなりません。体全体が存続するためには、不治の病に冒されている身体の一部を切り落とさなければならないということもあるのです。


メディアが度々イスラームやムスリム社会、イスラーム法の歪曲したイメージを宣伝するのは注目に値します。このような宣伝
によってある人々は、イスラーム法的刑罰が日常的に行われているような印象を受けるかもしれません。しかし実際のところイスラームの歴史全体を通しても、投石による死刑や手足の交互切断刑の執行に関する記録は僅かしか残っていません。投石による死刑に関して言えば、それが行われるのは非常に稀なことでした。実施されたものといえば、専ら当人の自白によるものだったのです。彼らは現世において自分たちの犯した罪から清められることと、来世において罪のない状態で神に謁見することを求めて敢えてそう望んだのです。他の刑罰に関しても、同様のことが言えます。

第四の誤解

多くの人々は、イスラームにおいて定められた棄教に対する刑罰は人権侵害であると主張します。彼らによれば、近代的な人権思想は全人に信仰の自由を認めています。そしてこの刑罰は、次のクルアーンの一節と矛盾しています: -宗教に強制はない。, (クルアーン2:256)


棄教に関する誤解への回答

イスラーム法はイスラームを人生の指針として受容した後にそれを放棄し、その信仰と法規定を拒否する者に対し刑の執行を定めています。神の使徒ムハンマドの良く知られた言葉として、次のようなものがあります: 「ムスリムの生命を侵すことは、以下の三種のもの以外非合法である:姦淫を犯した既婚者。生命に対する生命(つまり報復刑)。イスラームを放棄し、その共同体を去る者。」 ( アル=ブハーリー:6935と、ムスリムによる伝承:6524.)

また使徒ムハンマドはこうも言っています: 「イスラームを棄てて別の教えをとる者は、殺すのだ。」 ( アル=ブハーリーによる伝承:2854.)

イスラームを人生の指針として一旦受容した後にそれを拒否することは、イスラームへの悪意に満ちた宣伝と棄教者の居住するムスリム共同体への不名誉を意味します。このような拒絶行為は 人々のイスラーム改宗を妨げるだけではなく、あらゆる種類の犯罪や冒涜的言動の発生を促進します。またイスラームの拒絶はその者のイスラーム改宗の原因が遊び半分のものであり、それを人生において真剣に実践する気はなかったことを示しています。ゆえにこの種の拒否は往々にしてイスラームへの攻撃と謀反へとつながるのであり、そのためにこの刑が定められたと考えることが出来ます。

イスラーム法において、不信仰を宣言しイスラームを拒絶することは受け入れられないことと見なされます。というのもそのような者は信仰に対する神聖な奉仕を光栄に思っていないものとされるからです。このような者はまだイスラームには出会っていない生まれつきの非ムスリムよりも危険な状況にあります。聖クルアーンにはこうあるのです: -信仰し、それから不信仰に陥り、その後また信仰に入り、それから再び不信仰に陥り、更に不信仰を増大させるような者たちは、アッラーからのお赦しを得られないであろう。またかれが彼らを導かれることもないであろう。, (クルアーン4:137)

私たちはイスラームの棄教に関して、以下のことを考慮しなければなりません。

イスラームの信仰を放棄した者が死刑に処されるということは、その人物がイスラームの基本教義を破り、かつイスラームを冒涜と背信でもって公けに攻撃し、倫理的・社会的秩序を根本から脅かしていることを示しています。このような背信はイスラーム社会における危険な内乱や謀叛を及ぼす恐れがあります。この種の犯罪はいかなる社会にとっても最も深刻な問題であり、一般に「国家反逆罪」という名で知られているのと同様のものです。尚確信を持って棄教した者には、イスラームへと回帰する機会として連続三日間の猶予が与えられます。そしてイスラーム学者によって彼が自分自身の魂と家族、そして社会に対して犯そうとしている大罪についての説明を受け、同時に彼が抱いていたイスラームについての誤解の解明についても説得されます。そしてもし彼がイスラームに回帰するのなら、何の咎めもなく解放されます。棄教者に対する刑罰は実際のところ、そのイスラーム社会に属する他の者たちのための救済処置でもあります。というのもも しその棄教者が社会に放置され、他の人々の前でその不信仰と冒涜を宣伝すれば、彼らもまたその悪意と侵害的行為によって影響される恐れがないとも限らないからです。しかし棄教者が自らの不信仰を自分の内側だけに留め、それを公言したり宣伝したりするのでなければ、彼のことは神のみぞ知ることとなり、少なくとも現世での懲罰は免れます。神こそは誰が真の信仰者で誰が不信仰者か、または誰が真摯であり、誰が偽りの信仰を掲げる者かを最もよくご存知のお方なのです。イスラーム法治国家の権威はあくまで外的事象に基づいて裁決を下すだけであり、表面には現れない内的事実に関しては神に委ねることになっています。

一方でこの法規定は、イスラームの受容と放棄という問題が非常に深刻なものであることを明白にしています。イスラームに改宗しようと思う者は、改宗を宣言してその法規定の枠内に飛び込む前に、十分な時間をかけつつイスラームを人生の規範としてあらゆる角度から勉強し、研究し、評価し、よく吟味しなければなりません。

イスラームは信仰の放棄を単なる個人的物事ではなく、むしろ体系全体を害する拒絶行為として捉えています。この拒絶行為は社会的騒乱を導く蜂起と扇動の種なのです。イスラームは社会に危害や混乱を及ぼすような物事に対しては、決して寛容ではありません。

イスラームにおける棄教者への法規定は多くの近代的政治体系と相似している一方、より適度なものでもあります。というのも近代的政治体系の多くにおいては現存する政治体制や政府への反対活動は非合法な反逆罪とされ、そのような活動に従事した者は死刑や追放、拘禁や財産没収などの刑に晒されることになるからです。そしてそのような人物本人だけでなく、その親類などまでが嫌がらせや暴行に遭うことも珍しいことではありません。しかしイスラームは棄教者のみを、単純かつ直接的で非常に有効な抑止策をもって罰するのです。

第五の誤解

ある種の人々は、ムスリム女性が非ムスリム男性と結婚出来ないのは、女性の人権と個人的自由の侵害であると主張します。彼らによれば、このような権利は世俗的な近代法では認められてい ることであり、全人は誰とでも結婚することが出来ます。またムスリム男性もヒンドゥー教徒や仏教徒などの多神教徒女性と婚姻関係を結ぶことを、禁じられています。これは人権と個人的自由への侵害以外の何ものでもありません。 ムスリムと非ムスリム間の結婚に関する誤解への回答
(「イスラーム法とイスラームにおける人権に関するシンポジウム」(Beirut, Dar-al-Kitab-al-Lebnani, 1973)からの意味的抜粋。)


実際のところ、これらの禁止事項はイスラームにおいて男女の人権を侵害するものではありません。むしろ結婚の調和と人権侵害の抑制を保障するものなのです。この禁止令の裏に隠されたイスラームの理論的根拠は、女性と家族の重要性、そして核家族の保護です。世俗的近代法は、成人が同意のもとに築くあらゆる性的関係‐それが例え同性愛であっても‐を許可しています。しかしイスラームにおいて性的関係は、男女間の合法かつ高潔な婚姻によるものでない限り認められません。イスラームは人間の道徳観を守り、家族を離婚による分裂から保護するためのあらゆる手段を尽くしています。人は自らの幸福と、将来的な家族と世代の繁栄のために、配偶者となるべき相手と共に調和と平穏を追求しなければなりません。そこにおいて深刻な潜在的不一致となる要素が存在することは、両者の結婚を踏み止まらせる一つの理由となります。無論配偶者間の宗教的不一致は、そのような理由の内の一つです。この件に関して発生し得る三つの状況を、以下に挙げていってみましょう:

第一のケース:ムスリム男性は多神教徒や偶像崇拝者、無神論者の女性と結婚することを禁じられます。というのもイスラームの信仰は多神教や偶像崇拝、その他神の冒涜に通じるような物事を許さないからです。イスラームは、配偶者の根本的信条が認められないような結婚を禁じています。もしこのような状況になったら、家族全体が継続的な論争と混乱の舞台となってしまうでしょう。このような結婚は大概の場合、離婚という結末を見ることになります。そしてその結果家族は分裂し、子供が一番の悪影響を蒙ることになるのです。

第二のケース:ムスリム男性はキリスト教徒及びユダヤ教徒の女性と結婚することが許されています。というのもイスラームはモーゼとイエスを、神から遣わされた真の預言者であると信じているからです。これらの宗教の信仰箇条や法規定には部分的に相 違点がありますが、上記の場合ほど結婚が問題的性質を帯びることはありません。そしてもし配偶者間の他の要素に問題がなければ、結婚は持続可能なものとなるでしょう。


第三のケース:イスラームは非ムスリムがムスリム女性と結婚することを禁じています。というのもユダヤ教徒やキリスト教徒、多神教徒らは預言者ムハンマドの伝えるメッセージと彼の預言者性を認めていないからです。また自然や歴史を鑑みても、男性は女性を率いる立場にあります。こうして見れば非ムスリム男性はその立場を利用して、家という私的境界線内においてムスリムである妻の信仰と指針に対し、不敬的態度をあらわにするかもしれません。また夫がイスラームや預言者ムハンマドに関して侮蔑的言動を取ったりした時には、夫婦間に大きな敵意や嫌悪感を生じさせることにもなり兼ねません。この種の婚姻は疑念の余地なく、夫婦間に議論をもたらしたり、あるいは夫が妻をその信仰から背かせようと試みたりすることに繋がるでしょう。一方で妻が強気に自分の信仰の弁護に出れば、それは身体的暴力や服従の強制などの原因になるかもしれません。そして彼女は女性という性質上、酷い扱われ方を甘んじて受け、自らと子供を守るためにひどい苦難を味わうことになります。イスラームは第一のケースと同様に、虐待や諍い、厳しい試練の原因となることが明白だったり、あるいは明らかに離婚の危険性があったりする様な種類の結婚を禁じています。要約すればこの第三のケースは夫婦間の不和に至る筋書きの中でも最悪のものであり、それゆえに禁じられているのです。

第六の誤解

ある人々は言います:「イスラームの奴隷制度はイスラームの謳っている平等と個人の完全なる自由という概念に反している。これもまた人権侵害ではないか。」
奴隷制の誤解への回答

イスラームの奴隷制は多くの側面において、他の社会のそれとは異なっています。また多くの人々が古代ギリシャや古代ローマ、欧米の植民地主義者たちの慣行に基づく奴隷制から連想するものとも異なっています。イスラームはそれ以前の時代に奴隷制が存在しており、かつそれが当時社会的にも経済的にも不可欠な 要素となっていたために、奴隷制を許容しました。奴隷制は当時、生活における多くの分野が彼らの労働力に依存していた故に普通に見られた、世界的現象でした。奴隷制はイスラーム以前の宗教においても見出すことが出来ます。例えば、旧約聖書にはこういった記述が見て取れます: 「一つの町へ進んで行って、それを攻めようとする時は、まず穏やかに降服することを勧めなければならない。もしその町が穏やかに降服しようと答えて、門を開くならば、そこにいるすべての民に、みつぎを納めさせ、あなたに仕えさせなければならない。もし穏やかに降服せず、戦おうとするならば、あなたはそれを攻めなければならない。そしてあなたの神、主がそれをあなたの手にわたされる時、つるぎをもってそのうちの男をみな撃ち殺さなければならない。ただし女、子供、家畜およびすべて町のうちにあるもの、すなわちぶんどり物は皆、戦利品として取ることができる。また敵からぶんどった物はあなたの神、主が賜わったものだから、あなたはそれを用いることができる。遠く離れている町々、すなわちこれらの国々に属さない町々には、すべてこのようにしなければならない。ただし、あなたの神、主が嗣業として与えられるこれらの民の町々では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない。すなわちヘテびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとはみな滅ぼして、あなたの神、主が命じられたとおりにしなければならない。」 [申命記 20:10-17]

また以下の節において、 ユダヤ教の掟においては主人がその奴隷を叩いて殺すことさえ出来ることが描写されています: 「もし人がつえをもって、自分の男奴隷または女奴隷を撃ち、その手の下に死ぬならば、必ず罰せられなければならない。しかし、彼がもし一日か、ふつか生き延びるならば、その人は罰せられない。奴隷は彼の財産だからである。」
[出エジプト記 21:20-21]

聖書において、奴隷制を禁じるような言及はどこにも見出せません。南北戦争時のアメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイビスは、次のように堂々と宣言しています: 「(奴隷制は)全能なる神の定めによって作られたのだ。…それは二つの聖書の中の、創世記からヨハネの黙示録に至るまで是 認されている。…それはいつの時代にも存在していたのであり、高度文明の民や、高度に発達した芸術を誇った国家のもとにも認められていたことなのだ。」
( 「ジェファーソン・デイビス」第一巻286頁内のダンバー・ローランドによる引用。また1861年2月18日にアメリカ連合国モンゴメリーで彼が行った「連合国の暫定大統領ジェファーソン・デイビスの就任演説」(議会報1)


このような世界情勢を考慮に入れて、イスラーム法は長期的かつ漸進的計画をもって社会から奴隷制を抹殺することを狙ったのです。私たちは奴隷制に関わる全てのことから突然身を引くように直接的命令を受けたわけではありませんが、奴隷獲得の手段は漸進的に制限され減少していき、一方で奴隷の解放が奨励されました。また奴隷の扱い方に関しては公正かつ栄誉高い厳格な掟が適用され、更には彼らが望むならば自分自身を解放する契約すら許されるようになりました。奴隷制の改革的第一歩は、奴隷身分の者の心と精神の解放です。彼らは弱さや劣等性を感じて落胆するのではなく、強さや健康、有能さを感じることを教えられました。イスラームは奴隷身分の者たちを彼らの主人の同胞と呼ぶことにより、その心と精神に人間的感情や清廉さを吹き込みました。使徒ムハンマドはこう言っています: 「あなた方に仕える者たちは、アッラーがあなた方の配下に置かれたあなた方の同胞である。ゆえに同胞の世話を任せられている者は、自分が食べている物を彼にも与え、また自分の着る物を彼にも与えるのだ。そして彼らが担えないほどの負担を課してはいけない。もしそうするのであれば、彼らを助けてやるのだ。」 ( アル=ブハーリー:2406と、ムスリムによる伝承:1661.)

また奴隷身分の者も権利を獲得しました。聖クルアーンと預言者ムハンマドの言行録では、ムスリムが彼らに親切でよくあるように命じられています。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています: -そしてアッラーを崇拝し、かれと共に何ものをも配してはならない。そして両親と近親と孤児、恵まれない境遇にある者たち、また近い隣人と遠い隣人、そして近しい仲間と旅路(で苦境)にある者、あなた方の右手が所有する者(奴隷)に対 して善行を施すのだ。実にアッラーは、自惚れ屋の高慢な者を愛で賜らない。, (クルアーン4:36)

また神の使徒ムハンマドがその死の床で、ムスリムたちに礼拝と奴隷の権利の遵守を命じた事実は、彼の長年に渡る奴隷に対しての配慮の証明でしょう。
また預言者ムハンマドは、こう言ったとも伝えられています: 「奴隷を去勢したりする者は、われら(アッラーのこと)がその者を去勢するであろう。」 ( アル=ハーキムによる伝承:8100.)

イスラームの教義によれば奴隷制は身体的側面に限ったことであり、主人によって改宗や思想の転換を強制されたりすることはありません。奴隷には信仰の自由があるのであり、そもそもイスラームにおいて真の優越性とは敬虔さと正しい行いのみに依拠するというところに人類平等思想の最良の例があるのです。イスラームは奴隷と主人の間の関係を同胞愛と団結力に溢れたものとしました。そのよい例の一つとして、神の使徒ムハンマドがそのいとこにあたるクライシュ族の高貴な女性ザイナブ・ビント・ジャハシュを彼の元奴隷であるザイド・ブン・ハーリサに嫁がせたことが挙げられます。またこのザイドの息子は、預言者ムハンマドの教友たちの中でも選りすぐりの精鋭から成る軍隊の指揮官として指名されたことさえありました。

イスラームはいかなる混乱や混沌も及ぼすことなく、イスラーム社会から奴隷制を撲滅する二つの主要な手法を取りました。これらの手法はイスラーム社会の様々な階層間に反目や憎しみをもたらすことはなく、当時一般的であった経済的・社会的状況に損害を与えることもありませんでした。


第一の手法:非常に広範な奴隷制の源泉を、イスラームの歴史のある時点において撲滅すること。イスラーム時代以前の奴隷制の根源は多様でした。例えば戦争において敗れた兵士が戦争捕虜となり、その結果奴隷となるといった原因の他、海賊行為や誘拐などによって捕捉された者が奴隷として売買される、などということもありました。また債務を返済出来ない場合に債権者の奴隷になったり、父親が自分の息子や娘を奴隷として売却したりすることもありました。また一定の金額の支払いと引き換えに、自分自

身の自由を提供する、というようなこともあったようです。奴隷化は多くの犯罪の刑罰として科されてもいました。犯罪者が被害者の遺族や相続人の奴隷となったりもしたのです。また奴隷女性の子供は例え父親が自由人であっても、奴隷と見なされました。
イスラームはこれらの奴隷制の根源を、二つの場合のみを除いて断ち切りました。そしてその二つは時代状況において、十分に論理的な理由となりえるものです。


  • ムスリム統治者による合法的な宣戦によって始まった戦争における戦争捕虜: しかし注意すべきは全ての戦争捕虜が奴隷とならなくてはならない、ということではないことです。 戦争捕虜は無償解放することも出来れば、身代金と引き換えに解放することも出来ます。聖クルアーンにはこうあります: (戦いで)不信仰者たちと出遭ったら、彼らを数多く殺すまで戦え。そして(拘束するための縄で、捕虜を)しっかりと繋ぎ止めるのだ。その後は戦争が終わってから(それらの捕虜を)見逃してやるか、あるいは身代金と引き換えにせよ。(事は)こういった次第である。そしてもしアッラーがお望みになれば、彼らの内のある者たちをお救いになろう。しかしかれはあなた方を互いに試練にかけるため(、あなた方に戦いを命じた)。そしてアッラーの道において殺された者は、アッラーがその行いを決して無駄にはなされない。かれはそのような者たちを(正しい道へと)導かれ、その状況を改善して下さろう。また彼らを天国へお入れになり、その居場所をお教え下さろう。, (クルアーン47:4)

    イスラームに敵対する者はその初期において、イスラームの拡大と発展を阻むためにあらゆる手段を講じました。非ムスリムは当時ムスリムを戦争捕虜として拘束し、それゆえにムスリムも同様のことをしたのです。


  • 奴隷身分の両親から生まれた者: このような者もまた、奴隷として見なされます。しかし主人がその奴隷女性を法律上の妻とした場合、この関係ゆえにその間に生まれた子供は父親の系譜に組み込まれることとなり、自由民となります。このような場合その母親は「子供の母親」という呼称で呼ばれ、奴隷身分にはありながらも売買されたり贈与されたりすることは許されなくなります。そして主人の死の折には、自由民となるのです。
  • 第二の手法:そして奴隷制撤廃における第二の手法とは、奴隷解放の奨励とその原因の多元化です。根本的に言えば、奴隷解放は主人の意志によってのみ達成されます。イスラーム以前の時代において奴隷は一生涯奴隷身分にあると見なされ、奴隷を解放する場合にはその主人が罰金を支払わなければならない、というようなこともありました。しかしイスラームは奴隷自身による自己解放という手段をもたらしました。つまり奴隷がある一定の金額でもって、その主人と自己解放のための契約を結ぶことです。また主人はいかなる罰金も科されることなく、いつでも望む時に奴隷を解放することが許されました。以下に奴隷解放が義務付けられている物事の一部を挙げていきましょう:


    • 贖罪: 過失による殺人の贖罪は、敬虔なムスリム奴隷一人の解放です。そして更には、被害者の遺族に対して血債という賠償金が支払われます。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています: -過失の場合は別にせよ、信仰者が信仰者をあやめることなどがあってはならない。それでもし過失から信仰者をあやめてしまった者は、信仰者の奴隷を一人解放することと、その遺族への血債を(その代償と贖罪として課される)。但し、彼ら(被害者の遺族)がそれ(血債)を免除する場合は別である。, (クルアーン4:92)
    • ズィハールの誓いに対する贖罪:この法的根拠は、次の聖クルアーンの節に見出すことが出来ます: -そしてあなた方の内で妻に対しズィハールを行う者たちで、以前自分たちが言ったことを撤回しようと思う者は、互いに触れ合う前に奴隷を一人解放するのだ。それこそあなた方が戒められているところのもの。アッラーはあなた方の行いを尽くご存知になられる。, (クルアーン58:3)
    • 誓いを破ったことに対する贖罪:この法的根拠は、次の聖クルアーンの節に見出すことが出来ます: -アッラーはあなた方が宣誓において、うっかり口を滑らせてしまったことに関してお咎めになることはない。しかしかれ は、あなた方が(きちんと)成立させた宣誓(の不履行)に関して、あなた方をお咎めになるのである。そしてその贖罪は、あなた方の家族に食べさせるような平均的なものでもって、十人の貧者に食物を施すこと。または彼らに対する衣服の提供、あるいは奴隷一人の解放である。そして(それらが)見つからない場合は、三日間のサウム(斎戒、いわゆる断食)をせよ。これらがあなた方が誓った際の、あなた方の(履行しなかった)宣誓に対する贖罪である。そして宣誓を(軽々しく用いることを)控えよ。このようにアッラーはあなた方が感謝すべく、あなた方にそのみしるしをご説明されるのだ。, (クルアーン5:89)
    • ラマダーン月にサウム(斎戒、いわゆる断食)を破ったことに対しての贖罪:この件において最も良い例は、神の使徒ムハンマドのもとを訪れてこう言ったある教友の話でしょう: 「 アッラーの使徒よ、私はもうだめです。」 預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は言いました:「何がだめなのだ?」(男は)言いました:「ラマダーン月に妻と交わってしまいました。」(預言者は)言いました:「奴隷を一人解放出来るか?」(男は)言いました:「いいえ。」(預言者は)言いました:「それでは二ヶ月間連続してサウム(断食)することは出来るか?」(男は)言いました:「いいえ。」(預言者は)言いました:「それでは六十人の困窮者に食事を振舞うことは出来るか?」(男は)言いました:「いいえ。」それから(男は)座りました。すると預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)のもとに、ナツメヤシの実が入った袋が運ばれて来ました。(預言者は男に)言いました:「これでもって施すがよい。」(すると男は)言いました:「私たちより貧しい者に、ですか?二つの溶岩地帯の間(マディーナのこと)には、私たちよりもそれを必要としている者はいないというのに。」すると預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は犬歯が露わになるほど笑われ、こう言いました:「行くがよい。そしてそれでお前の家族に食べさせよ。」 ( アル=ブハーリーによる伝承:1834.)
      なお贖罪が科せられており、そうする経済力はあるものの解放 するための奴隷を所有していない場合には、奴隷を購入して解放するようにします。
    • また奴隷解放は神の御許で最も好ましい慈善行為とされています。至高なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています: -しかし彼は険しい道へと踏み込まない。そして険しい道とは何か?奴隷の解放である…, (クルアーン92:11-13)
      更に預言者ムハンマドは、神の道ゆえに奴隷を解放することを自ら率先して奨励しました。彼はこう言ったと伝えられています: 「ムスリム(の奴隷)を一人解放する者は誰でも、アッラーがその体の全部分をその(解放された者の)体の全部分をもって地獄の業火から救って下さるであろう。」 ( アル=ブハーリー:6337と、ムスリムによる伝承:1509.)
      また使徒ムハンマドは、こう言ったそうです: 「病人を見舞い、飢えた者に食事を与え、奴隷を解放せよ。」 ( アル=ブハーリーによる伝承:2881.)
    • 遺言による解放:これは筆記によるものでも、口頭によるものでも構いません。もし主人が、彼の死後にその奴隷が自由となる旨を宣言した場合、それは実現されます。そしてイスラームはその予防策として、このような宣言の対象となる奴隷が売買されることを禁じています。またもし奴隷女性がそのような宣言を受け、かつその主人が彼女を妻として娶った場合、彼らの間に生まれた子供は自由民となります。同様にこのような場合、件の奴隷女性は第三者に売却されたり贈与されたりはせず、その身分から解放されることになるのです。
    • 奴隷解放は、ザカー(義務の浄財)の用途の一つです。この法的根拠は、次の聖クルアーンの節に見出すことが出来ます: -ザカーは貧者と困窮者、ザカー(の徴収)に携わる者、(それによって)心に親愛が生まれそうな者、奴隷の解放、債務に苦しむ者、アッラーの道にある者、そして旅人に与えられる。(それは)アッラーからの義務である。アッラーは全てをご存知で、かつ英知溢れるお方。, (クルアーン9:60)
    • 奴隷の顔を殴ったり叩いたりした罪に対する贖罪:イスラームは主人がその奴隷の顔を不当に殴ったり、叩いたりした場合、その奴隷の解放を勧めています。この法的根拠は、神の使徒ムハンマドの次の言葉に見出すことが出来ます: 「奴隷の顔を叩いた者の償いは、彼(女)の解放である。」 ( ムスリムによる伝承:1657.)
    • 奴隷自身による解放契約:これは奴隷がその主人と同意したある一定額の支払いと引き換えに、自らの解放を要求することです。主人は奴隷からそのような解放契約の提示を受けた場合、それを受け入れるべきとされています。このような状況において奴隷は解放契約を成就するために必要な金額を稼ぐため、自ら売買したり、取引したり、所有したり働いたりする自由を得ます。またこのような場合、主人に対する労働の奉仕でさえもまたその報酬として見なされなければなりません。実際のところ、イスラームは社会におけるこのような境遇の人々のために、経済的に豊かな者たちが寄付したり援助したりすることを勧めています。奴隷の主人さえもまた、同意した額の一部を免除したり、あるいは彼が自由を勝ち取るために収入を得ることの出来る良い環境を準備してやったりすることが求められます。全能なる神は、聖クルアーンの中で次のように述べています: -そしてあなた方の右手が所有する者(奴隷のこと)の内でムカータバを望む者には、あなた方が彼らによきもの(宗教や生活手段など)を見出す限りそれを許すがよい。そしてアッラーがあなた方に授けられた財産の内から、彼らに施すのだ。, (クルアーン24:33)
      簡潔に言えば、イスラームは奴隷制を制定したわけでもなければ、それを奨励したわけでもなかったのです。むしろ奴隷制の原因となる要素を効果的に制限したり、奴隷解放を促進したりするための法規定を定めたのだと言えます。